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  • Bergsäge | glueckauf

    Historische Bergsäge beim Maria Theresia Stollen Erhaltungsverein Bergsäge Maria Theresia Stollen Die ehemalige Bergsäge am Pernecker Salzberg bei Bad Ischl ist ein montanhistorisches Denkmal ersten Ranges: • Sie ist das letzte vollständig erhaltene Relikt des Pernecker Salzbergs. • Sie wurde als erste Säge der k:k: Monarchie mit einem Riemenantrieb ausgestattet, der bis heute vollständig erhalten ist. • Sie ist die letzte aus dieser Zeit stammende Säge im inneren Salzkammergut. Zum Erhalt dieser Säge wurde im März 2025 der gemeinnützige „Erhaltungsverein Bergsäge Maria Theresia Stollen“ gegründet. Ziel der Mitglieder und Unterstützer dieses Vereines ist es, dieses einzigartige Objekt zu sanieren und im Zuge von Führungen auf den Pernecker „Via Salis Themenwegen“ der interessierten Öffentlichkeit zugänglich zu machen. Gemeinsam können wir die traditionsreiche Bergsäge wieder in Schwung bringen, wir freuen uns auf Ihre Anfragen! Der „Erhaltungsverein Bergsäge Maria Theresia Stollen“ Hans Kranabitl: Tel. +43664 73118978, Mail kranabitl@aon.at Horst Feichtinger: Tel. +43677 61168967, Mail horst.feichtinger@gmx.at Vereinskonto: Sparkasse Bad Ischl AT14 2031 4055 0006 0693 サリス経由 塩の方法 Weiterlesen » サリス経由 塩の方法 Weiterlesen » サリス経由 塩の方法 Weiterlesen » この言語で公開された記事はまだありません 記事が公開されると、ここに表示されます。

  • Igm | Via Salis Bad Ischl

    Interessengemeinschaft Mitterbergstollen IGM IGM - I nteresseng emeinschaft M itterbergstollen Gesamtarbeitsaufwand Stollenportale restaurieren Errichtung Themenweg Via Salis 1 + 2 Wiederauffahrung Moosbergstollen Errichtung Dorfplatz Errichtung Themenweg Via Salis 3 - Soleleitung Errichtung Via Salis Schaustelle Maria Theresiastollen Erweiterung Via Salis Schaustelle Maria Theresiastollen - Kreiselwipper + Versturzgleis Renovierung Bergsäge Maria Theresia Stollen Aktivitäten 2025: Bergsäge Überdachung Kreiselwipper Aktivitäten 2024: 8.4.2024: A GMIATLICHE STUND 09-05-24 Max Neuböck 00:00 / 1:00:24 9.5.2024: 13.5.2024: Arbeiten 2023: Presse ViaSalis 2023.pdf Juli 2023 - Ischler Woche: Dunkle Momente am Ischler Salzberg - Kunstgüterbergung 1944/45 DMIS 2022 年 5 月 - アッパー オーストリアのニュース: IGM メンバーはバート イシュル市から文化栄誉証明書を授与されました Arbeiten 2022: Arbeiten 2021: 2021年7月7日:新しいショールーム 「ブラインストリーク」 2021年5月12日:「ピンクの滝」 2021年5月:ザルツカンマーグートの記憶 2020年6月:VIASALISの新しいショー 2020年6月:1920年のサンドリング地すべりに関する報告 2020トンネル口エリザベス散水ピットがVIASALISのために発見されました: 2020年:「VIASALIS」の第3シーズン 26.10.2019 イシュルハイキングの日2019年10月26日 開会式7.9.2019 開会式VIASALISと村の広場の印象 マリアテレジア情報ボード2021 サリス2021経由の様々な作品 作業ショールームブラインライン2021 ローザの滝2021 村の広場を修理する2020 2020を見た エリザベス散水洗掘2020 ミッターベルクトンネル2013 ルドビカトンネル2014 Lipplesgrabenトンネル2015 女子木製シュトーレン2016 ノイバーグトンネル2016 新しいスタインバーグトンネル2017 マーテル2021 マリアテレジア階段2021を無料でカット キルヒェンフェルト2021をクリア Rinnwerkbergen2020のコンクリート要素 排水2020 ヨハネストンネル2014 マティアストンネル2014 エリザベストンネル2016 Josefstollen 2016 オールドスタインバーグトンネル2017 Rabenbrunnトンネル2017 モースベルクトンネル2018 詳細作業実績Moosbergstollen2018 VIASALISパスは機能します サリステーマトレイル2018経由 VIASALISプレス 11.2019|カルチャーレポートオーバーエスターライヒ

  • viasalis Bad Ischl

    viasalis Themenweg Wandern Salzkammergut Bad Ischl Salzberg via salis 経験の歴史 サリス経由 塩の方法 サリス経由 塩の方法 バート・イシュル と塩 IGM 利益団体Mitterbergstollen 塩は1563年以来バートイシュルで採掘されています。 歴史的なトンネルの入り口、山の教会、鉱山労働者の家、旧シャファーサグ および他の地域は サリス通り 訪問される... Die ehemalige Bergsäge am Pernecker Salzberg bei Bad Ischl ist ein montanhistorisches Denkmal ersten Ranges 切望されたミネラル塩の祝福は、ザルツカンマーグート全体にかかっていました。したがって、名前は、KammergutとSalzという単語で構成されています... 2013年から2018年の間に、「Interessengemeinschaft Mitterbergstollen」(IGM)は、かなりの費用をかけて合計12のトンネルポータルを復元しました... 読み続けてください " Weiterlesen » 読み続けてください " 読み続けてください " ニュース この言語で公開された記事はまだありません 記事が公開されると、ここに表示されます。

  • Ischler Salzberg | Via Salis Bad Ischl

    IschlerSalzbergのトンネルの概要 姓 攻撃 長さ 海面 ミッターベルクトンネル* 古いスタインバーグトンネル* Lipplesgrabenトンネル 下の水の山 ノイバーグトンネル Mooseggテストギャラリー* マシューシュトーレン ロスムーステストギャラリー ミッターベルク-水路トンネル 女性の木のスタッド アマリアシュトーレン 高水山 レーベンブルントンネル* エリザベスシュトーレン 新しいスタインバーグトンネル* ジョン・シュトーレン Hubkoglテストトンネル テストギャラリーRehkogl 中水山 ルドビカ・シュトーレン ジョセフ・シュトーレン マリア・テレジア・シュトーレン レオポルドシュトーレン フランツシュトーレン Langmoos排水トンネル フランツ・ヨーゼフ・エルブストレン 1563 1567 1567 1567 1571 1577 1577 1584 1596年 1610 1687 1689 1692 1712年 1715年 1725年 1725年 1725年 1738年 1747年 1751年 1775年 1794年 1794年 1858年 1895年 197 938 236 100 1464 364 740 702 1073 40 1000 750 284 487 54 1013 1195 1590 1800 884 57 2860 886 852 1000 1024 909 625 959 894 880 851 1114 800 812 862 991 1030 764 722 680 643 588 503 塩採掘の16のトンネル 塩採掘のない1つのトンネル (フランツトンネル、1794年) 5つの水路トンネル (Perneckerに4つ、Lauffner岩塩ドームに1つ) 4つのテストトンネル 1563年から1895年にかけて26のトンネルが開通 (333年) これらのトンネルには「古い小さな岩塩貯蔵庫」があります(Lauffner Salzstock) 考え方が柔軟な IschlerSalzbergと鉱業全般に関するすべての詳細 Grubenriss Ischler Salzberg 1865 Ischler –Salzbergのマイニングマネージャー ハンス・カルス 1563 - 1571 (アルタウッセから来ています) トーマス・カルサム 1590年頃 マーティン・カルス (マーティン・カルセン) 1648年頃 アブラハムウィブメラム 1664年頃 ハンス・ウィブナー、 ハンス・ウィマーム 1710年頃 アントン・ディクルバーガー 1808 – 1.4。 1838年 フランツ・フォン・シュウィンド 1.4。 1838年 – 1841年7月16日 アロイス・フォン・レホロフスキー 1.12。 1841年 – 1.8。 1847年 グスタフ騎士 1.10。 1848年 – 1849年9月9日 KkHüttenmeisterRitterは、1807年1月5日にオージーで息子として生まれました。 kk PfannhausverwalterJosefRitterの生まれて死んだ 1884年3月27日 アウスゼーのガルテンガッセ4にある彼の家で、今日も 「Ritterhäusel」として知られています。 彼のチェッカーサービスの後-1829年に次のように記録されました 山の学生、彼はエーベンゼー、イシュル、ハライン、ハルシュタットで働いていました。 彼はまたガリシアのkkサリナスで奉仕しました-彼は1851年に HüttenmeisterからAusseeへ。 「Hüttenschaffer」リッターは、1840年に亡くなったときに知られるようになりました。 レンガ窯の建設にデスクファイアリングを導入し、大きな成功を収めました。 彼は薪を節約し、薪を完全に燃焼させることで塩を節約しました より純粋になります。 彼の仕事に加えて、彼は現在のトピックを扱い、それをドローイングに記録しました。彼は「おかしなオオバン」と呼ばれ、彼の適切なジョークの絵で地元で知られるようになりました。専門家は彼を「ヴィルヘルム・ブッシュ・フォン・オースゼー」と呼んだ。 多数のペン画も受け取りました アンナ・プロッフルも彼の芸術を非常に高く評価していました。 HüttenmeisterRitterは、1876年のカーニバルについても興味深い説明をしました。 彼はついに言った: 「....3つの美しい日の思い出、私たちの人生と同じように、誰もが他の人をだまし、隣人をだまして前進するという課題に対処しようとする、重大な夢の集大成です。」 アルバート・ヒップマン17。 9.1849-1。 7.1865 ジョセフウォールマン1865年7月1日-1865年7月8日5. 1873 8月Aigner1873年7月1日–7月1日1.1884 Karl Schedl 1884–1年1月1日。 6.1898 Robert von Possanner 6/1 / 1898–1。 4.1901 アレクサンダーブレッチナイダー 1901年4月1日–1 1.1909年 JosefGriessenboeck1。 2.1909-18。 11.1924 Erich Alfred Kubla 1925年1月26日–8。 8.1925 フランツピクル1926年1月4日–29日。 12.1926 ジュリアス・ロッター1927年1月1日–1 7.1933 Erich Ressel 1933年7月1日–3月31日。 1943年 ポールレペス1/17/1944-31。 7.1945年 Heimo Mayrhofer 1946年1月1日–1956年6月4日 フリードリヒハンペル 1976年1月1日-1978年7月31日 ルドルフ・ノイホールド 1978年 – 1988年 Gerhard Hirner 1988年 - 1993年4月30日 Walter Oberth 1993年5月1日 Horst Sochor 1994年 1994年5月1日から、鉱業会社は合併しました Altaussee、Hallstatt、Bad Ischl、およびザルツカンマーグートを採掘するためのプローブフィールド アーネストガイスバウアー 1994 – 2005 クレードマイケル 2005年から 使用されたソース: HollwögerFranz、Ausseer Land、Vienna 1956、page 90 and Dicklberger Anton、Salinengeschichte、volume 1、1817、transcripted by Nussbaumer Thomas、Weitra 2018、page375f。 Dicklberger Anton、Salinengeschichte、Volume 2、1817、transcripted by Nussbaumer Thomas、Weitra 2018、page422f。 Dicklberger Anton、Salinengeschichte、第1巻、1817年、Nussbaumer Thomasによる転写、Weitra 2018、389ページ。 Dicklberger Anton、Salinengeschichte、第1巻、1817年、Nussbaumer Thomasによる転写、Weitra 2018、439ページ。 Dicklberger Anton、Salinengeschichte、第2巻、1817年、Nussbaumer Thomasによる転写、Weitra 2018、568ページ。 バート・イシュル市立博物館、1階、ザルツベルク・イシュルの部屋の写真。 Schraml Carl、Saline History、第1巻、178、181、183ページ。 バート・イシュル市立博物館、1階、ザルツベルク・イシュルの部屋の写真。 Schraml Carl、Saline History、第2巻、157ページ。 Thomanek Kurz、塩の粒、Leoben 2007、166ページ。

  • Bad Ischl | glueckauf

    イシュルと塩 切望されたミネラル塩の祝福は、ザルツカンマーグート全体にかかっていました。したがって、名前は、KammergutとSalzという単語で構成されています。商工会議所の不動産は、主権者、この場合はハプスブルク家の大公が直接所有する地域です。 ハルシュタットやバートアウスゼーとは対照的に、バートイシュルの塩鉱床は比較的遅く発見されました。もちろん、イシュル周辺は塩分が多い地域として長い間認識されていましたが、鉱山を開放するための特別な経済的必要性がありました。 1563年7月、イシュルでの塩採掘を開始するための礎石が置かれました。 Perneckの村に最初のトンネルが開かれました。輸送に適した場所、手つかずの森林の発生、ハルシュタットの塩採掘が不可能である可能性があるため、イシュルの塩採掘場が設立されました。 8年後の1571年、塩処理のための最初の醸造所がバート・イシュルに設立されました。イシュルの何世代にもわたる人々にとって、塩は最も重要な経済的基盤となりました。以前の輸送に加えて、現在はザルツベルクペルネックで直接生産されています。 1595年、当時のルドルフ2世皇帝は、ハルシュタットからゴイーザーンを経由してバートイシュルまでの塩水パイプラインの建設を委託しました。長さ40kmで、地形に完全に適合した、これは世界初のパイプラインでした。 17世紀と18世紀には、ザルツカンマーグートの塩取引に危機がありました。 19世紀の初めに、塩は健康目的で使用され始めました。それで、1821年に博士が率いるウィーンからの医療代表団が起こった。ワイアー、イシュルから博士へ。ゲッツは旅した。一緒に彼らは健康リゾートを見つけることにしました。 最も重要な救済策として、ザルツベルクの泉と泥からの硫黄に加えて、主な焦点はイシュル塩にありました。 たとえば、呼吸回復の1つの方法は、生理食塩水吸入でした。この目的のために、蒸し塩鍋の上にスパのゲストのためにギャラリーが建てられました。

  • 22 Dicklberger Strasse | glueckauf

    22 Antonius Dicklberger Strasse アントン・ディクルバーガー:イシュル塩鉱山の鉱夫 バイオグラフィー: 1780年に生まれ、妻のヴァルブルガと結婚したアントンディクルバーガーは、彼の人生が終わるまでバートイシュルに住んでいました(1813年に建てられたフランツベルグハウスの最初の入居者)。鉄の勤勉さ、完全な知識と豊富な経験の人として、彼は1808年にIschlerSalzbergの山のマスターに任命されました。在職中、彼は特別な補償なしで5人の生徒(山の学生)を教えました。 Hofkammerは、さまざまな鉱山を推定および評価するために、彼を鉱業の専門家として選びました。 Dicklbergerは、アッパーオーストリアの塩鍋の彼の包括的な歴史に何年も取り組んでおり、したがって、彼自身を永続的で名誉ある記念碑に設定しました。 1817年4月15日、彼は2巻の作品をソルトオフィスに提出することができました。彼の功績により、彼は最高の賞として法廷からオーアのミドルゴールド市民メダルを授与され、オーバーエスターライヒの製塩所の歴史を創造するための彼の努力が認められ、名誉を授与されました。 50ドゥカートの贈り物。 年齢が上がるにつれ、彼は病気になり、1836年に1年間の休暇を開始し、サービスに戻ることはなく、1838年に引退しました。彼は1840年に亡くなりました。彼の未亡人は、墓にラテン語の碑文が建てられた記念碑を持っていました。これには、ドイツ語で次の文言が含まれています。 1840年10月22日、61歳で主に眠りに落ちました。彼が安心して休むことができますように。」 2010年、それにふさわしい鉱夫に敬意を表して、エック村のバートイシュル市庁舎は彼にちなんで通りに「アントニウス-ディクルバーガー-シュトラーセ」と名付けました。 ソルトワークスの元従業員であるバート・イシュルのトーマス・ヌスバウマーは、歴史的作品を現在の書き方に翻訳し、2018年にオリジナル版のDVDを収録した2巻の作品として出版しました。

  • Wanderführer Via Salis | glueckauf

    Wanderführer zur Wanderung. 64 Seiten Infos VIASALISバートイシュルへのハイキングガイド ツアーの64ページに集中情報。 トンネルのそばのボードの情報については、ハイキングガイドにさらに多くの詳細があります。 ここでは、個々のトンネル、地質学、信仰、教会、ザルツカンマーグートの人々の創意に富んだ精神、テクノロジーに関する歴史的情報について詳しく説明します。 セール: バートイシュルにあるSalinenTourismusGmbHのソルトワールドショップ(Kaiser-Franz-Josef-Straße) Tourismusverband Bad Ischl、Auböckplatz5-ポンプ室、A-4820 Bad Ischl 注文は私たちと一緒に行うこともできます:Tel。No. 067761168967 、Eメール: horst.feichtinger@gmx.at 価格: €5.00 Hier gibt es das Buch: Ischler Heimatverein, donnerstags 9 – 12 Uhr Salzkammerguttouristik Götzstraße Tourismusverband Trinkhalle Buchhandlung Thalia, Pfarrgasse

  • Verwaltung Des Salzkammergutes | Via Salis Bad Ischl

    Verwaltung des Salzkammergutes ザルツカンマーグートの管理 Salzgewinnung durch geistliche Grundherren: Die in den Händen der Nonnen des Klosters Traunkirchen liegende bergmännische Salzgewinnung und das Salzsieden in Hallstatt waren sicher vor 1311 wieder aufgenommen worden. Im ausgehenden Mittelalter errangen auch die Landesfürsten das Recht auf Regale (vom lateinischen „regalis“ = dem König gehörend), es gelang aber erst nach und nach, dieses durchzusetzen, den gerade bei der Salzproduktion waren die geistlichen Grundherren noch längere Zeit hindurch sehr aktiv. Salzgewinnung der Landesherren: Bereits Anfang des 13. Jahrhunderts erreichte der steirische Landesherr das Monopol über die Saline in Aussee, nachdem er die Besitzrechte des Zisterzienserklosters Rein ablöste. Erst hundert Jahre später konnten auch die Habsburger die Salzregale in Hallstatt vom Kloster Traunkirchen für sich beanspruchen. Anlässlich ihrer Heirat mit Herzog Albrecht I. (ab 1282 Herzog von Österreich und Steiermark) erhielt 1280 Elisabeth, die Tochter Meinrads II. von Tirol, die Herrschaftsrechte im heutigen Salzkammergut als Morgengabe. Bald nach dem Tod ihres Gemahls im Jahre 1308 hatte Elisabeth an der uralten Salzstätte, dem „halperg“ zu Hallstatt, ein neues Salzwerk „vom wilden gebirge und grünen wasen gepawet und gestiftet“ und dann im Jahre 1311 sowohl dessen Betrieb als auch den Absatz des gewonnenen Produktes, „daß unser saltznutzlich und fürderlich werde verchouffet“, durch Verleihung gewisser Konzessionen an private Unternehmer gesichert. Diese Konzessionen waren die „Burglehen“ oder „Junkhernrechte“, weil sie an Adelige, und die „Burgerrechten“, weil sie an Bürger vergeben worden sind. Die Inhaber der erstgenannten Rechte waren hauptsächlich zur Erzeugung, die Besitzer der letzteren zum handelsmäßigen Vertrieb des Salzes verpflichtet. Die am 12. Jänner 1311 von Elisabeth ausgestellte Urkunde, gab dem bereits vorhandenen Hallstätter Salinenwesen eine erste feste organisatorische Form. Hallstatt wurde Markt und Hallstätter Bürger erhielten die sogenannten "Salzfertigerrechte". Frühe Strukturen herrschaftlicher Verwaltung: Sowohl das Ausseer Land als auch das Ischlland waren demnach bereits zu Anfang des 14. Jahrhunderts „verstaatlichte“ Bergbauregionen, die als landesfürstliches Eigengut dem Herrscher direkt unterstanden und von landesfürstlichen Beamten verwaltet wurden. Von der Struktur her waren es schon „Kammergüter“, nur der Begriff existierte noch nicht. Der Landesfürst war in diesem Raum nicht nur Landesherr, sondern auch Grundherr und die Einnahmen aus den Salzvorkommen flossen direkt in die landesfürstliche Finanzkammer. Es bildete sich ein Staat im Staate mit eigenen Rechten und Organen, die direkt dem Landesfürsten und der kaiserlichen Finanzverwaltung, der "Kammer" unterstellt waren. Als weisungsgebundene Beamte erscheinen der Salzamtmann urkundlich zuerst im Jahre 1335, der Hofschreiber zu Hallstatt 1338 und der Bergmeister 1346. Es begann eine neue Ordnung im Salzwesen, die anfangs vom Pfleger in Wildenstein als dem Vertreter des Landesfürsten geleitet wurde. Noch 1452 war der Pfleger zugleich auch Salzamtmann. Mit der Zunahme der Salzerzeugung war die Vereinigung beider Ämter in einer Hand nicht mehr länger sinnvoll; während der Pfleger zu Wildenstein die Vogtobrigkeit und die Gerichtsbarkeit weiter behielt, wurde ein eigenes Salzamt in Gmunden errichtet und diesem ein Salzamtmann vorgesetzt. Die Wahl von Gmunden als Amtssitz war wohl dadurch gegeben, dass Gmunden der von der Natur gegebene Umschlagplatz und damit auch Zentrum des Salzhandels war. Außerdem war dort auch die sehr wichtige Salzmaut beheimatet. Ein vollständiger Ausbau und eine eingehende Regelung der Verwaltung des Kammergutes war jedoch während des ganzen Mittelalters nicht möglich, da die Landesfürsten das Kammergut nicht in eigener Regie führten, sondern in Pacht vergeben hatten. Die kriegerischen Zeiten am Ausgang des 15. Jahrhunderts und die damit zusammenhängende stete Geldnot der Landesherren führten zur ungemein schädlichen Verpachtung des gesamten Salinenwesens. In Aussee musste das Pachtsystem schon lange vorher bestanden haben, da 1492 geklagt wurde, dass dessentwegen mehr als 60 Jahre kein „Fürbau“ mehr geschehen sei. Zwischen 1478 und 1491 lag der Hallstätter Betrieb nacheinander in fünf verschiedenen Händen, jeder Pächter suchte aus ihm mit den geringsten Unkosten den größtmöglichen Gewinn zu ziehen und sich auf Kosten des Staates und der Volkswirtschaft zu bereichern. Zu einer wirklich ergiebigen Einnahmsquelle wurde das oberösterreichische Salzwesen erst unter der Regierung des Kaisers Maximilian I. und seiner Nachfolger. Reform des Salzwesens durch Maximilian I.: Maximilian I., der die Wichtigkeit einer geregelten Betriebsführung im Salzwesen für das Staatswohl und die Erträge des Salzregals erkannte und den Salinen des Kammergutes seine besondere Aufmerksamkeit schenkte, löste die Pachtverhältnisse noch vor Ablauf der Vertragsdauern nicht nur in Hallstatt, sondern auch in Aussee auf und führte die gesamte Salzwirtschaft in die landesfürstliche Verwaltung zurück. Zugleich erlies er genaue Weisungen über die Betriebsordnung am Salzberg und im Pfannhaus, über die Entlohnung der Arbeiter und Beamten wie über das Waldwesen, wobei er sich des Rates erfahrener, fachkundiger Männer von anderen Bergbauen und Ämtern bediente, die er als Kommissionäre zur Bergbeschau anordnete. Solche Bergvisitationen wurden unter Maximilian I. wiederholt abgehalten. Die erste urkundlich nachgewiesene Untersuchung des Salzwesens zu Hallstatt und Gmunden unter Maximilian I. fand im Jahre 1494 statt. Eine Salzordnung Maximilian I. ist uns nicht erhalten geblieben, dass eine solche aber tatsächlich bestanden hat, geht aus zwei Schriftstücken hervor, die sich im Stadtarchiv von Enns befinden. Ausseer Hallamtsordnung 1513: Kaiser Maximilian I. befahl 1513 die Verfassung der Ausseer Hallamtsordnung, die als älteste Waldordnung gilt. Die relativ kurze „Instruction und Ordnung bey dem Salzbergwerke zu Aussee“ aus dem Jahr 1513 verfolgte einen doppelten Zweck. Einmal versuchte sie Missstände zu beseitigen, zeitgemäße Reformen durchzuführen und damit den Ertrag von Bergbau und Saline zu steigern; andererseits war sie sichtlich bemüht, die Rechte des Landesfürsten zu festigen. Die „heimliche Beinutzung“, das heißt mit anderen Worten, die Bestechungsgelder, sollten abgeschafft werden. Dazu waren vornehmlich zwei Dinge notwendig: Erstens sollten die Beamten wie auch die Arbeiter besser bezahlt werden und ihre Löhne pünktlich erhalten, dies nicht so sehr aus sozialen Erwägungen heraus, sondern damit sie von ihren Löhnen auch tatsächlich leben konnten und auf Nebeneinkünfte nicht angewiesen waren. Die zweite Forderung ging nach einer strengen Überwachung aller Angestellten durch den Verweser. Daran scheint es sehr gefehlt zu haben. Im Waldwesen tritt besonders auffallend die neue Haltung der landesfürstlichen Politik in Erscheinung. Die Unordnung war in den, den landesfürstlichen Ämtern unterstehenden Wäldern, den sogenannten Kammerwäldern, ganz besonders groß. Die Forderung nach Heranziehung auswärtiger Fachleute sagt genug aus. Die Ordnung von 1513 bildete schon eine durchaus bürokratische Maßnahme. Allein Maximilian I. war noch nicht imstande, die Ausführung dieser Ordnung durchzusetzen. Anders sein Enkel und Nachfolger Ferdinand I. Ferdinand I., ganz im Sinn absolutistischer Tradition am spanischen Hof erzogen, suchte, wie viele andere auch, das Salinen- und Waldwesen im Salzkammergut vollständig der landesfürstlichen Gewalt zu unterwerfen. Sogleich nach seinem Regierungsantritt gab er Befehl, dass durch Sachverständige aus Hall in Tirol und aus Eisenerz eine neue Hallamtsordnung ausgearbeitet werde. Sie ist mit 4. Oktober 1521 datiert, ist aber verschollen. Ausseer Hallamtsordnung 1523: Auf Grundlage der Ordnung von 1521 wurde die „Instruction und Ordnung bei dem Salzbergwerke zu Aussee“ vom 13. Mai 1523 ausgearbeitet. Die Hallamtsordnung von 1523 bestimmte zunächst als übergeordnete Behörde, ohne deren Befehl keine neuen Baue errichtet und keine Ausgaben verrechnet werden durften, die Niederösterreichische Raitkammer. Die „heimliche Beinutzung“ der Verweser und Amtleute, die „zum Nachteil und zur Schmälerung des landesfürstlichen Kammergutes führte“, wurde „aufgehoben und abgetan“. Die Beamten mussten sich fortan auf ihren „ordinari soldt“ beschränken und durften nur so viel Holz und Salz beziehen, als sie „zu irrer zimblichen hausnotturft“ bedurften, mussten dieses Holz und Salz auf ihre eigenen Kosten aus dem Werk wegführen und das Holz ebenfalls auf ihre eigenen Kosten hacken lassen. Eine bescheidene Entschädigung dafür erhielten der Verweser und der Gegenschreiber in einer Art „Reisekosten“. Für verschiedene Arbeiten wurde eine Art Akkordlohn eingeführt, d. h. es wurde nicht mehr die ausgewendete Zeit vergütet, sondern die tatsächlich verrichtete Arbeit verrechnet. Die Beamtengehälter wurden beträchtlich erhöht. Die Hallordnung von 1523 war eine streng bürokratische Ordnung, die zwischen einer vorgesetzten Behörde, der Niederösterreichischen Raitkammer, und einem nachgeordneten Amt, dem Hallamt zu Aussee unterscheidet, sowie unnachsichtig vorschreibt, dass alle Beamten mit fixen Barlöhnen das Auskommen zu finden hatten. Da bereits 1524 eine ähnliche Neuordnung des Siedens in Hallstatt und Gmunden getroffen wurde, ist anzunehmen, dass nunmehr die bürokratische Ordnung in einer angemessenen äußeren Form der kaiserlichen Befehle den vollen Sieg davongetragen hatte. Erstes Reformationslibell 1524: Libelle waren kleine Büchlein (lateinisch „liber“ = das Buch), die Sammlungen von Urkunden und Texten enthielten. Reformationslibelle enthielten die für die jeweilige Wirtschaftsweise geltenden Gesetze, kompakt zusammengefasst, sowie Analysen mit zukunftweisenden Anordnungen. Sie galten als Nachschlagewerke oder Handbücher für eine ganze Region. Das erste Reformationslibell mit dem Titel „Libell der Newen Reformation unnd Ordnung des Siedens Hallstat unnd ambts zu Gmunden 1524“ steht an der Grenze zweier Epochen des Hallstätter Salzwesens. Bis in die Zeit Kaiser Friedrich III. lag der Betrieb in den Händen Privater, den Pfannhausern, Erbeisenhäuern und Burgern, letzter waren für den Transport und Verschleiß zuständig. Friedrich III. begann, diese privaten Rechte abzubauen und dafür die landesfürstlichen – grundherrlichen eintreten zu lassen, was seine beiden Nachfolger fortsetzten und beendeten. So trat der Landesherr in die Aufgaben und Rechte der bisherigen Unternehmer ein. Daraus entstand ein bedeutender, landesfürstlicher Verwaltungskörper. Die Reformationskommission bestand aus den Hofräten Hans Schärfenberg, Inhaber der Herrschaft Ort, Hans Hofmann zu Grünbühel, Christof Praunfalk, Verweser in Aussee, Ulrich Stark und Hans Segkher, Mautner zu Gmunden und hatte den Befehl „die Salzwesensordnungen, die aus den alten Briefen und Libellen seit Königin Elisabeth aufgestellt waren und sich in der langen Zeit und aus anderen täglichen Zufällen zum Nachteil des Kammergutes in etwas verändert haben, zu erneuern.“ Um über den Zustand und die Ausdehnung des Bergbaues eine Übersicht und damit eine Grundlage zur weiteren Beratschlagung zu gewinnen, war eine Vermessung der Grubengebäude angeordnet worden, zu welcher auch die Bergmeister von Hall in Tirol und Aussee herangezogen wurden. Die Berufung der Haller Bergleute hatte ihren Grund darin, dass diese ihre Hallstätter Kollegen in der Kenntnis der Grubenvermessung übertrafen; dagegen besaßen die von Aussee in der Markscheiderei die geringste Erfahrung. Nun hatte zwar der Bergmeister von Hallstatt, Wolfgang Huebner, über höheren Auftrag schon am 14. Mai 1523 mit der“ Verschienung“ des Salzberges begonnen, sie aber nicht zu Ende geführt. Die von den fremden Bergmeistern gemachten Teilaufnahmen stimmten weder untereinander noch mit der Hallstätter „Schien“ überein, auch grobe Fehler kamen vor, kurz, der Kommission war mit der Vermessung sehr wenig geholfen. Es fehlte an Aufschlüssen über die Lage, den Umfang und die Versudhöhe der verschnittenen Schöpfbaue und der anzulegenden Verbindungsschürfe. Die fremden Bergleute wussten überhaupt nicht, warum man sie vermessen lies. Bei der „Darschlagung der Schien“ (dem Auftragen der Vermessung über Tage in natürlicher Größe) waren weder die ortskundigen Hallstätter Bergleute noch Fachmänner aus Gmunden zugegen. Die Vermessung war für die Kommission fast wertlos und diese genötigt, ihre Beschlüsse hauptsächlich auf Grund der eigenen Wahrnehmung bei der Bergbeschau nach den damals geltenden bergwirtschaftlichen Grundsätzen zu fassen. Das erste Reformationslibell 1524 suchte zunächst das durch den Raubbau gestörte Gleichgewicht zwischen Vorratswirtschaft und Erzeugung wieder herzustellen, vermehrte die Mannschaft, insbesondere die Zahl der Säuberer, und drang auf die rasche Erschließung der hinteren Lagerteile der Abbauhorizonte im Hallstätter Salzberg. Der Salzberg wurde zum ersten Mal vermessen, doch nicht kartiert, weil man Grubenpläne im verjüngten Maßstab noch nicht anzufertigen verstand. Auch die markscheiderische Aufnahme der Schöpfbaue unterblieb, deren Ausdehnung und gegenseitige Lage war daher nicht genau bekannt. Das Zusammenschneiden der Baue dauerte weiter an, wurde bisweilen sogar absichtlich herbeigeführt, Schutzdämme dagegen kannte man nicht. Der Inhalt des ersten Reformationslibells gliedert sich folgendermaßen: A. Einführungsdekret Erzherzog Ferdinands 1525 Jänner 8. - Beginn I. Teil Das Sieden zu Hallstatt B. Privilegien – Privilegien von 1311 und 1455 durch Erzherzog Albrecht, Ablösung der Jungherrenrechte und Pfannhausstätten 1524 C. Vermessung und Bestandsaufnahme des Salzberges zu Hallstatt 1523 D. Ordnung für den Bergbau – Bergmeister, Bergschaffer, gemeine Bergleute, Besoldung, Unschlitt, besondere Auslagen E. Pfannhausordnung – Feuerarbeit, Sudarbeit, Instandsetzung F. Ordnung für den Eisenwarenbedarf G. Ordnung für den Aufsatz des Werk- und Brennholzes H. Ordnung der Wälder und der Waldarbeit J. Ordnung in der Waldhegung und des Holzbezuges K. Pflegamt Wildenstein L. Ordnung für das Verwesamt Hallstatt: aAllgemeine Bestimmungen – Amtsführung, Aufsichtspflicht, Überwachung des Siedens, Proviantwesen, Neubauten, Feuerwache Ordnung für die Gemeinde Hallstatt – Lebensmittelpreise, Salzbezug, Gründe zu Obertraun Hofschreiberamt Mitverweser und Richter zu Hallstatt Gegenschreiber und Pfieselschreiber II. Teil Das Salzamt zu Gmunden M. Ordnung für das Salzamt in Gmunden a. Amtsführung – Salzfertiger und Aufsicht über das Verwesamt b. Mautamt und Verwaltung in Gmunden c. Handel und Gewerbe in Gmunden d. Traunfall – Fallmeisteramt e. Schifffahrt zu Gmunden – Wasserfahrt bis Stadl f. Das Amt in Stadl g. Die Schifffahrt auf der Traun h. Ordnung der Ladstätten zu Enns, Freistadt, Ardagger und Wallsee III. Teil Verschiedene Ordnungen N. Großkufenhandlung der Stadt Gmunden O. Ordnung der Salzbereitung für den Landrichter ob der Enns P. Ordnung des Handels mit bayrischem Salz Q. Schluss des Einführungsdekrets Mit dem ersten Libell war die Grundlage geschaffen, auf der sich die gesamte Wirtschaft im Salzkammergut für die Folgezeit aufbaute und in den späteren Ordnungen bloß eine zeitgemäße Abänderung und Erweiterung erfuhr. Zeit zwischen dem ersten und zweiten Reformationslibell: Seit dem Jahre 1527 unterstand das Salzamt der Hofkammer als oberster Verwaltungsbehörde des Kammergutes. Mit der Gründung der Hofkammer wurde eine Art „Holding“ für die österreichischen Kammergüter geschaffen. Diese sorgten für regelmäßigen und ausreichenden Zustrom in das fürstliche Budget, zeitweise steuerte das Salz bis zu einem Viertel der Einnahmen bei! Das Lohnniveau im Salzkammergut wurde niedrig gehalten, der Salzpreis den Budgeterfordernissen angepasst; er lag weit über den marktwirtschaftlichen Tarifen, was Salzschmuggel und Schleichhandel förderte. Nun setzten die alles wirtschaftliche Leben umfassenden Vorschriften des ersten Libells auch die Möglichkeit und den Willen der Beamten und Arbeiter voraus, in allem danach zu handeln, und die Macht und Eignung der leitenden Ämter, sie dauernd zur Geltung zu bringen. Gerade damit schien es aber zu Anfang des 16. Jahrhunderts übel bestellt gewesen zu sein, da, wie im zweiten Libell zu lesen, mancher Amtmann und Verweser das erste Reformationslibell nicht kannte. Im Jahre 1532 wurde geklagt, dass ein Mangel an Hofschreibern sei, deshalb dieses Amt lässig behandelt und viel Handlung von Hallstatt nach Gmunden gezogen werde, welches dem Salzhandel unleidlich und eine große Verschwendung wäre. Demnach erging von der n. ö. Hofkammer nach Gmunden der Befehl, um einen tapferen, geschickten und kundigen Mann für einen Hofschreiber zu sehen, dem auch mehr Gewalt als bisher einzuräumen sei. Offenbar hatte sich das Salzamt in Gmunden während des Fehlens einer Amtsleitung in Hallstatt deren Befugnisse angeeignet und nicht die Absicht gehabt, sie in der Folge wieder abzugeben. Neben der Notwendigkeit, die gelockerte Ordnung im Salzwesen wieder zu festigen, sprachen noch andere gewichtige Gründe dafür. Die gewaltige Vergrößerung der Habsburgischen Hausmacht durch den Anfall der Kronen von Ungarn und Böhmen im Jahre 1527 und die Zurückdrängung der Einfuhr fremden Salzes in die österreichischen Länder hatte eine starke Vermehrung des Absatzes von Gmundner Salz zur Folge. Die Sudpfannen in Hallstatt und Aussee waren schon früher vergrößert und, als dies nicht mehr ausreichte, durch den Zubau je, einer weiteren Pfanne verdoppelt worden. Um für die Dauer der Hauptzurichten die Salzerzeugung nicht zu stark einschränken zu müssen, wurde die Errichtung einer dritten Wechselpfanne in Erwägung gezogen, die in Hallstatt aufgestellt werden sollte. Kaiser Ferdinand I. ernannte zu diesem Zweck am 26. August 1562 eine eigene Kommission, an welche sich eine Generalwaldbeschau anschloss. Das Ergebnis dieser Beschau war, dass die Erbauung einer dritten Pfanne in Hallstatt mangels des dazu nötigen Brennholzes untunlich sei. Die fast gleichzeitig mit den Beratungen der Reformationskommissäre beschlossenen Schürfungsarbeiten in Perneck bei Ischl führten zur Aufschließung eines neuen Salzlagers und zum Bau des Pfannhauses in Ischl, mit dessen Hilfe die erhöhten Salzansprüche in der ersten Zeit voll befriedigt werden konnten. Zweites Reformationslibell 1563: Das zweite, von Ferdinand I. am 30 November 1563 erlassene Reformationsibell, reagierte auf den drastischen Wandel in der Salzproduktion, der durch die Boomphase des 16. Jahrhunderts eingeleitet worden war und sich in der Folge ungebremst fortsetzte; das neue Pfannhaus in Ischl eröffnete 1571 und jenes in Ebensee 1607. Das zweite Reformationslibell 1563 trägt den Titel „Reformierte Ordnung des Saltzwesens zu Gmunden und Haalstat. Auffgericht im 1563. Jar“. Dem zweiten Libell das erste von 1524 zum Muster gedient. In Anlage und vielen Einzelbestimmungen herrscht daher zwischen den beiden breite Übereinstimmung. Bei näherer Betrachtung sind folgende Unterschiede zu finden: Gleich zu Beginn wurden die Privilegien und Urkunden mit ausdrücklicher Bezugnahme auf das Libell von 1524 ausgelassen. Ganz verändert erscheint die Pfannhausordnung, weil der Umbau der alten Sudanlage auf die Haller Form eine teilweise Neuordnung der Arbeit erforderlich machte. Das Spital in Hallstatt wird erstmals erwähnt. In die Waldordnungen werden die Ergebnisse der 1561 und 1562 vorgenommenen Generalwaldbeschau detailiert eingearbeitet. Neu ist die Ordnung für das Fuderführen von Hallstatt bis Gmunden. Besonders stark hat die Reform 1563 in das Gmundner Salzamt eingegriffen, das mit dem Einnehmeramt zu den bestehenden Ämtern ein neues mit eigener Instruktion bekam. Der Kleinkufen- und Großkufenhandel – dieser mit der Ordnung von 1544 – sowie die Einrichtung von Salzniederlagen wurden geregelt. Die Errichtung einer großen und kleinen Maut machte die Erneuerung der Instruktion des Mautners und Gegenschreibers nötig. Eine Einschränkung erfuhr die Gewalt des Salzamtes gegenüber der Stadt Gmunden. Das zweite Reformationslibell begründete die neue Ordnung damit, „als sich durch die danach geschehene Erweiterung und Mehrung des Salzsiedens allerlei Veränderungen, Bedenken und Missverständnisse zugetragen, also dass unsere Notdurft erfordert, nicht allein bemeldte (erste) Amtsordnung zu bessern, zu erweitern und zu verändern, sondern auch Beratschlagung darüber zu halten, wie die bisher eingerichtete Veränderung der Pfannen und Erweiterung des Salzsudes und sonderlich die gemachte Ordnung und Austeilung der Wälder zu immerwährender Versorgung des Salzwesens zu richten und beständiglich zu erhalten sei“. Die Reformationskommissäre Christof Urschenböck, Hans Aspan, Jakob Ginger, Wolf Grüntaler und der Salzamtmann Georg Neuhauser fanden das Bergwesen in guter Ordnung. Die Ausrichtung des Hallstätter Salzlagers und die Anzahl der benützbaren Schöpfbaue war befriedigend und reichte auch für den inzwischen wesentlich vermehrten Solebedarf vollkommen aus. Das zweite Libell stellte mehrfache in der Zeit eingerissene Missbräuche ab, erneuerte die Arbeitsordnung und erweiterte die Machtbefugnisse des Hofschreibers dem Bergmeister gegenüber. Die Verantwortlichkeit des Bergmeisters in der Rechnungslegung wurde verschärft und er wurde zur regelmäßigen Berichterstattung an das Salzamt in Gmunden verhalten. Bergtechnische Fortschritte waren seit der Erlassung des ersten Libells keine gemacht worden, der Übergang von den Schöpfbauen zu den Dammwehren erfolgte erst später und auch dann nur zögernd. Die Erschließung des Ischler Salzberges fällt gerade in diese Zeit, weshalb er im zweiten Libell noch nicht erwähnt wird. Im Einführungsdekret des zweiten Libells vom 30. November 1563 heißt es, man habe etliche Exemplare drucken lassen und darunter vier Exemplare mit dem kaiserlichen Siegel beglaubigt, von denen je eines an die Niederösterreichische Raitkammer, an das Salzamt in Gmunden, an das Mautamt in Gmunden und an das Hofschreiberamt in Hallstatt übergeben worden ist. Zur besseren Einhaltung der Bergordnung wurde die Verlesung des zweiten Libells bei jeder vierteljährlichen „Abmaß“ (Vermessung) anbefohlen und den Bergbeamten verboten, ihre Arbeiten durch andere besorgen zu lassen. Auch durften sie ohne Wissen des Hofschreibers fernerhin keinen Arbeiter zum Bergdienst aufnehmen. Dem Bergmeister wurde die jährliche Vorlage des Berichtes über die Streckenauffahrungen und den Werkerstand nachdrücklich in Erinnerung gebracht. Das zweite Libell wahrte die Machtbefugnisse des Hofschreibers in allem, besonders bei der Aufnahme und Entlassung von Bergarbeitern. Dabei fällt die Ermächtigung auf, die es dem Bergmeister erteilte, dienstliche Anzeigen nötigenfalls unmittelbar an das Salzoberamt in Gmunden zu richten. Einiges Misstrauen gegen den Hofschreiber war dabei wohl mitgelaufen. Organisation des Gmundner – Salzamtes: Das Salzamt hatte nicht bloß die Oberleitung der Erzeugungsämter in Hallstatt, Ischl und Ebensee, sondern überwachte auch die Weiterverarbeitung des Salzes und dessen Verführung in die Lade- und Legstätten des Landes, den Salzfertigerdienst und die Salzschifffahrt sowie das ganze Waldwesen. Die wichtigste Abteilung im Salzamt mit gesonderter Verrechnung war das Einnehmeramt, an dessen Spitze der Einnehmer, als Vertreter des Salzamtmannes, und sein Gegenschreiber standen. Er führte die Hauptkassa, aus der die übrigen Ämter ihre Gelderfordernisse bezogen. Dafür empfing er Gelder vom Deputiertenamt in Prag und dem niederösterreichischen Salzamt sowie die Einnahmen des Mautamtes aus dem Fuderverkauf im Land und die sonstigen Einnahmen. Dem Einnehmeramt fiel außerdem noch die Verrechnung mit den Salzfertigern und die Abrechnung der Salzdeputate zu. Der nach dem Einnehmer gereihte Mautner und sein Gegenschreiber besorgten den Fuderlverkauf im Land, leiteten die Salzausfuhr bis nach Stadel und die Verbauungsarbeiten an der Traun. Dem Mautamt waren auch alle Instandhaltungsarbeiten an den Amtsgebäuden und sonstigen Baulichkeiten überantwortet. Dem Hofkastner oblag die Gebarung mit dem Getreide, er hatte auch die Salzaufschütt und die Salzzähler über das in Gmunden einlangende Fudersalz und das durch die Seeklause abgehende Kufen- und Fasselsalz zu beaufsichtigen. Das Großkufenhandelsamt umfasste die Erzeugung und Ablieferung des böhmischen Salzbedarfes an großen Kufen und Zentnerfassel bis zu den Ladstätten in Linz, Mauthausen und St. Johannes. Die Amtsregistratur, deren Anfänge auf Maximilian I. zurückreichen, bestand für das Kanzleiwesen und das Archiv. Abgesehen von dem Stab an Beamten und Meistern, die jedes der genannten Ämter besaß, gehörten dem Salzamt noch der Medikus für das Sanitätswesen an, dann der Forstmeister für Wald und Jagd, der Fischmeister für die Fischerei und ein meist in Linz wohnhafter „Advocatus Fisci“ als Berater in Rechtsfragen und Vertreter des Salzamtes vor Gericht. Dem Salzamtmann unterstanden unmittelbar das Hofschreiberamt in Hallstatt und die Verwesämter in Ischl und Ebensee, dann die Grafschaft Ort und die Pflegschaft Wildenstein; mittelbar aber auch alle Ortsgemeinden. Damit war der Salzamtmann der oberste kaiserliche Beamte im Kammergut geworden, der nur der Hofkammer in Wien unterstand und verantwortlich war. Der Salzamtmann war verpflichtet, die Verwesämter in Hallstatt, Ischl und Ebensee in gewissen Zeitabständen zu besuchen und sich über die dortigen Betriebsverhältnisse an Ort und Stelle zu erkundigen. Diese Visitationen fanden in der Regel einmal im Jahr statt und erforderten zusammen etwa 3 Monate. Die Visitationen wurden für den Amtmann zu einer einträglichen Abwechslung des Dienstablaufes. Die Untersuchungen blieben zumeist an der Oberfläche der Dinge haften und waren daher den Verwesamtsleuten auch nicht gefährlich. Bereits 1598 war „das Gmundtnerische Kammerguetswesen“ mit einer jährlichen „Nutzung von etlich“ 100.000 Gulden ein „solches Stuckh und Regale, dergleichen in den österreichischen Landen keines oder doch nit darüber zu finden“, und auch in der Folge bildete das oberösterreichische Salzwesen das einträglichste aller „Kameralgüter“ (Staatsgüter). Zeit zwischen dem zweiten und dritten Reformationslibell: In die Zeit zwischen dem zweiten und dritten Reformationslibell 1656 fällt die durch Luther hervorgerufene gewaltige religiöse Bewegung in Deutschland und Österreich und die Ausbreitung des Protestantismus, der im Salzkammergut überzeugte und treue Anhänger fand. Der Salinenbetrieb litt unter diesen Wirren verhältnismäßig wenig. Die Arbeiter freilich hatten unter der wachsenden Teuerung und den Drangsalen der militärischen Besetzung schrecklich zu leiden. 1622 kam Österreich unter bayrische Pfandherrschaft. Das Erneuern der alten Salzordnung und die Herausgabe eines neuen Libells waren schon lange notwendig geworden, weil die Vermehrung der Salinenbetriebe im Kammergut wesentliche Veränderungen in der Salzerzeugung, der Waldwirtschaft und dem Salztransport im Gefolge hatte und der neue Bergbau in Ischl wie die Pfannhäuser in Ischl und Ebensee einer eigenen Ordnung bedurften. Die Hofkammer hatte schon im Jahre 1620 die Absicht dazu gehabt, war aber durch die böhmischen Unruhen daran gehindert worden. Dann folgte von 1622 bis 1628 die bayrische Pfandherrschaft über das Salzkammergut und auch die kriegerischen Zeiten bis zum westfälischen Frieden im Jahre 1648 waren zur Vornahme einer so umfassenden Verwaltungsreform nicht geeignet. Nun aber konnte die Überprüfung der alten Vorschriften von 1563 und deren Angleichung an die so vielfach geänderten Verhältnisse nicht länger mehr hinausgeschoben werden. Das Salzkammergut war durch die langjährigen Wirrnisse religiöser und wirtschaftlicher Natur und die unerträgliche Teuerung aller Lebensbedürfnisse im Innersten aufgewühlt und dessen Verwaltung, durch die in allen Betriebszweigen eingerissene Unordnung und Unbotmäßigkeit völlig zerrüttet. Besonders während der Amtszeit von Salzamtmann Georg Prugglacher rutschten die Verhältnisse zunehmend ins Arge. Dem von 1625 bis 1653 tätigen Manager war das Heft weitestgehend entglitten, Schlendrian und Misswirtschaft blühten, seine maßlose, egoistische und herrische Art stiftete Unfrieden und Zwietracht. Eine weitreichende Korruptions- und Veruntreuungsaffäre brach ihm schließlich das Genick und führte zu seiner Absetzung. Mit der Resolution vom 25. August 1651 wurde die Erneuerung des alten Reformationslibells beschlossen, doch dauerte es noch weitere drei Jahre, bis die zu ihrer Verfassung erforderliche Hauptvisitationskommission am 20. Juni 1654 ernannt wurde. Zu den auswärtigen Mitgliedern der Kommission zählten der hochbefähigte Hofkammerrat Clement von Radolt als Leiter, Hofkammersekretär Adolf Merpold und Buchhalterei – Raitrat Wolfgang Spitzel. Von Gmunden nahmen noch Teil der Salzamtmann Achaz von Seeau und der Einnehmer Friedrich Streubl. An der ersten Beratung der Kommission am 17. Juli 1654 waren auch Vertreter des böhmischen Deputiertenamtes anwesend, da die Lieferansprüche der Salzversorgung Böhmens von 50.000 auf 70.000 bis 100.000 große Kufen jährlich erhöht werden sollte. Es war dies noch immer nicht der Salzabsatz von der Zeit vor dem Dreißigjährigen Krieg, unter dessen Nachwirkungen Böhmen litt, hatte es doch während desselben die Hälfte seiner Bevölkerung und seines Viehbestandes verloren. Das Kammergut war für eine solche Erhöhung der Salzerzeugung nicht gerüstet, dazu fehlte es vor allem an Holz für die Pfannen, die Kufenanfertigung und den Schiffbau. Die Forste waren verwahrlost, viel Windwurf vermoderte unaufgearbeitet, die Aufforstung war unterblieben, es fehlte an der Kontrolle der Holzerzeugung und Abgabe sowie an einem ordentlichen Betriebsplan, weil das Salzamt verabsäumt hatte, die schon längst nötig gewordene Waldbeschau vorzunehmen. Drittes Reformationslibell 1656: Das jüngere dritte Reformationslibell 1656 führt den Titel: „Reformierte Ordnung des Salzwesens zu Gmunden, Hallstatt, Yschl und Ebensee. Angefangen Anno 1655 und geendet im Jahr 1656.“ Im Gegensatz zu den Angaben des Titels ist das Einführungsdekret vom 2. Jänner 1659 datiert, also drei Jahre später als der Druckvermerk. Das hängt mit dem Regierungswechsel 1657 zusammen. Am Beginn des Dekrets erscheint noch Kaiser Ferdinand III. als dessen Aussteller. Erst unter seinem Sohn Kaiser Leopold I. am 26. Jänner 1669 erfolgte durch die kaiserliche Bestätigung die Ratifizierung. Das dritte Libell stimmt auf weite Strecken mit dem zweiten Libell wortwörtlich überein. Die Abweichungen hängen hauptsächlich mit der Eröffnung des Ischler Salzbergbaues (1563) und der Errichtung der Sudanlage in Ebensee (1607) zusammen: Es enthält eine neue Waldordnung auf Grund der Generalwaldbeschau 1630 – 1634. Ganz neu ist die Ordnung im „Ischlerischen Salzwesen“, die sich in ihrer Anlage ganz an die bisherigen Libelle anschließt; dasselbe gilt bezüglich des Ebenseer Pfannhauses. Der dadurch vielfach verstärkte Betrieb erforderte nunmehr auch eine neue, sehr umfangreiche Fertigerinstruktion (1657) und die Regelung des Großkufenhandels und der Kufenanfertigung, sowie die der verschiedenen Entlohnungen bei der Kufenabfuhr nach Linz und Mauthausen. Auch die zu ansehnlicher Höhe gediehenen Salzbezugsrechte verschiedener Art wurden neu geordnet. Die Beziehungen zwischen dem Salzamt und der Stadt Gmunden wurden wiederum reguliert. Außerdem passte man die Instruktion des Schreibers am Stadl bei Lambach den neuen Verhältnissen an. Entfallen ist gegenüber dem zweiten Libell die Salzbereitung (Überwachung des Salzhandels), die wohl zum Teil in den neuen Institutionen aufgegangen ist. Die bisher bestandenen Vorschriften über die Pflichten der Beamten und Arbeiter wie über die Ordnung am Salzberg wurden im dritten Reformationslibell 1656 nicht abgeändert, dagegen haben die Löhne seit dem zweiten Libell eine erhebliche Steigerung erfahren, die durch die inzwischen stark gesunkene Kaufkraft des Geldes und die allenthalben herrschende Teuerung voll begründet war. Die im dritten Libell enthaltene eigene Ordnung für den Ischler Salzberg lehnte sich in den Grundzügen an jene für Hallstatt an. Nunmehr bestanden schon Grubenkarten von beiden Salzbergen, welche die bedeutende Entwicklung derselben während des 90jährigen Betriebes nach dem zweiten Libell erkennen lassen. Die Schöpfbaue waren zwar noch nicht verschwunden, doch stand ihnen in Hallstatt schon eine gleich große Anzahl von Dammwehren gegenüber. Von einer technischen Entwicklung des Salzbergbau- und Sudhüttenwesens ist im 17. Jahrhundert noch nichts zu merken, die Betriebe verblieben in den von alters her eingefahrenen Geleisen. Der Wiener Hofkammer fehlten die nötigen Fachkenntnisse, um auf die eigenartigen Betriebsverhältnisse der Kammergutsalinen fördernden Einfluss ausüben zu können. Der Salzamtmann wurde neuerlich ausdrücklich verpflichtet, die Verwesämter in Hallstatt, Ischl und Ebensee in gewissen Zeitabständen zu besuchen und sich über die dortigen Betriebsverhältnisse an Ort und Stelle zu unterrichten. Diese Visitationen fanden in der Regel einmal im Jahre statt und erforderten zusammen etwa drei Monate. Die Untersuchungen blieben zumeist an der Oberfläche der Dinge haften und waren daher auch den Verwesamtsleuten nicht gefährlich. Die Klagen über die Saumseligkeit der Ämter in der Vorlage der Jahresrechnungen hörten nicht auf, die angedrohten Strafen blieben aus und um die Verweise der Hofkammer kümmerte man sich wenig. Im dritten Reformationslibell taucht der Begriff „Salzkammergut“ im Jahr 1656 zum ersten Mal auf. Mit dem Reformationslibell von 1656 wurde gleichzeitig die Abschottung der Region nach außen festgeschrieben. Die Saline konkurrierte auf dem internationalen Markt, man wollte tunlichst seine Betriebsgeheimnisse wahren. Die Verfügung formulierte das viel zitierte Betretungsverbot des Salzkammergutes. Die Region war für Fremde fortan weitestgehend abgeschlossen, wer sie bereisen wollte, der musste sich beim Salzoberamt in Gmunden oder beim Verwesamt in Hallstatt einen Pass besorgen. Dieser Anachronismus wurde erst 1825 mit dem aufkommenden Bäderwesen abgeschafft. Mit Fug und Recht konnte man die Reformationslibelle von 1524, 1563 und 1656 auch als Grundgesetz, als „Verfassung des Salzkammergutes“, bezeichnen. Diese Bücher waren eine Rechtskodifikation im weitesten Sinn, die zivil- und strafrechtliche Belange, ökonomische, arbeitsrechtliche, buchhalterische, betriebstechnische Angelegenheiten usw. regelte. Somit haben wir es hier auch mit einer fortlaufenden Gesetzessammlung, einer Betriebs-, Geschäfts- und Hausordnung, einem Lohn- und Preisabkommen etc. zu tun. Diese „Betriebsanleitung für die Firma Salzkammergut“ war die Basis allen Zusammenlebens, eine Art Regelwerk, das immer wieder herangezogen wurde. Zeit nach dem dritten Reformationslibell: Im Jänner 1707 erfolgte durch den neuen Hofkammerpräsidenten Gundacker Thomas Graf Starhemberg die Ankündigung einer neuerlichen Hauptvisitation des oberösterreichischen und steirischen Salzwesens unter der Leitung von ihm und dem Buchhaltereiraitrat Schickmayr. Die Kommission, welche ihre Aufgabe sehr ernst nahm und gründlich vorging, fand in allen Verwaltungszweigen eine erschreckende Unordnung und grobe Missbräuche. Fahrlässigkeit, Bestechlichkeit und Betrug waren die gewohnte Mittel geworden, deren sich die Beamten bedienten, um sich den Dienst zu erleichtern und ihr Einkommen zu erhöhen. Was war natürlicher, als dass die Meister und Arbeiter dem Beispiel ihrer Vorgesetzten folgten und sich in ähnlicher Weise Vorteile auf Kosten des Werkes zu verschaffen suchten. Die hierüber erstatteten Befehle machen den Beamten die genaueste Beachtung des Reformationslibells, aller Hofkammerbefehle, Kommissions- und Amtsverordnungen zur strengsten Pflicht. Die Beamten sollen die sie betreffenden Weisungen abschriftlich besitzen und sie dem Amtsnachfolger übergeben, damit sich künftig niemand mit der Unkenntnis der Verordnungen ausreden könne. Der energische Hofkammerpräsident Graf Starhemberg lies es bei dem ersten Eingriff in die Verwaltungszustände des Salzamtes nicht bewenden, sondern dehnte das Säuberungswerk auch auf die Verwesämter und sonstigen Betriebszweige aus. Im März 1709 verlangte er vom Salzamt die Vornahme einer Untersuchung über alle Personalangelegenheiten und die Absendung eines Berichtes zu seinen eigenen Händen. Über Auftrag der Hofkammer fand 1710 eine Beratung über die geplante Wirtschaftsreform des Salzwesens statt, an welcher jedoch der Salzamtmann Graf von Seeau nicht teilnehmen konnte. Viel kam hierbei nicht heraus. Gründung der Ministerial - Bankodeputation 1703: Mit der 1703 gegründeten Banco del Giro, die 1706 von der Wiener Stadtbank abgelöst wurde, ging die Oberleitung des Salzwesens im Kammergut an die Ministerial - Bankodeputation als Mittlerstelle zwischen der Bank und der Regierung über. Die erste amtliche Mitteilung über diese Neuerung langte in Gmunden aber erst im Jahre 1715 ein. In der Zeit von 1713 bis 1723 fand eine weitere Umbildung der Zentralverwaltung durch die Schaffung der Bankalität und des Bankalguberniums statt. Der Einfluss dieser Neuordnung auf die Verwaltung des Salzwesens im Kammergut äußerte sich lediglich in finanzpolitischer und administrativer Hinsicht, die betriebstechnische Seite des Salzwesens blieb nach wie vor der Hofkammer überlassen. Mit dem Übergang der staatlichen Geldwirtschaft an die Wiener Stadtbank unter Aufsicht der Ministerial - Bankodeputation war auch das Gmundner Salzamt der neuen Zentralstelle Ende Juni 1724 in allem angegliedert worden. Vom 1. Juli 1724 an kamen die Erträge des Salzverkaufes der Wiener Stadbank zugute, diese hatte aber alle nötigen Ausgaben für die Salzproduktion zu tragen. Die 1705 erfolgte Vereinigung der Hofkammern in Innsbruck und in Graz mit der Wiener Hofkammer, durch welche das ganze Salzwesen in Österreich unter eine gemeinsame Oberleitung gestellt wurde, brachte für das Gmundner Salzamt keine sichtbare Änderung; das benachbarte Verwesamt in Aussee behielt auch weiterhin seine selbstständige Stellung. Erst 1741 wurde das Hallamt in Aussee in das Gmundner Salzamt eingegliedert. Reformen des Salzamtmannes v. Sternbach: 1743 übernahm Johann Georg Freiherr von Sternbach, der große Reformer des oberösterreichischen Salinenwesens, die Leitung des Gmundner Salzamtes. Die Überfüllung des Mannschaftsstandes blieb auf die Holzarbeit nicht beschränkt, auch auf den Salzbergen und in den Pfannhäusern waren viel zu viele Arbeiter angestellt, allerorts herrschte Unwirtschaft und Verschwendung. Die von Sternbach in wenigen Jahren durchgeführte Verringerung des Personalstandes auf das wirtschaftlich gerechtfertigte Ausmaß war seine schwierigste Leistung; außerdem erneuerte er die veralteten Einrichtungen in den Betrieben, modernisierte das Markscheidewesen auf den Salzbergen, wandelte das Einnehmer- und Mautamt in eine zeitgemäße Buchhaltung und Kassa um. Sternbachs Reformen stießen begreiflicherweise vielfach auf Widerstand, am erbittertsten waren die Holzarbeiter über die zahlreichen Entlassungen und die erhöhten Leistungsanforderungen. Es kam zu einem Aufstand der Holzknechte in Ischl und zu offenem Aufruhr in Ebensee, der von den betroffenen Holzmeistern und Beamten geschürt wurde. Die wenigen, dem Salzamtmann ergebenen Beamten wurden tätlich angegriffen und misshandelt. Da griff die Regierung mit aller Schärfe ein, sie entsandte eine Untersuchungskommission mit ausgedehnten Vollmachten nach Gmunden und gab ihr 300 Mann Infanterie und 30 Mann zu Pferd als Unterstützung mit. Der Widerstand der Arbeiter war bald gebrochen, sie unterwarfen sich der neuen Ordnung. Sternbachs Reformeifer lies nichts unberührt. Um die drei Salzwerke in Ischl, Hallstatt und Ebensee auch nach außen hin einander gleichzustellen, wurde der bisherige Titel „Hofschreiber und Verweser“ in „Pfannhaus- und Bergverwalter“ abgeändert; die Gegenschreiberstellen wurden aufgelassen und deren Dienst in Hallstatt, Ischl und Ebensee den dortigen „Fuderzählern“ übertragen. Die Vereinigung des Einnehmeramtes mit dem Mautamt in ein Kassenamt ersparte nicht bloß die laufenden Regieausgaben, sondern auch Gehaltsforderungen, da Buchhalter und Kassier wesentlich geringere Bezüge hatten wie früher der Einnehmer und Mautner. 1745 wurde das Gmundner Salzamt zum Oberamt erhoben. Noch 1745 wurde das Salzamt verpflichtet, bei der Aufnahme von Beamten den Einheimischen den Vorzug zu geben. Die Söhne der Amtsangehörigen hatten begreiflicherweise den nächsten Anspruch und genossen alle Förderung durch Stipendien und sonstige Hilfe, doch fanden auch Fertiger- und Bürgersöhne Aufnahme in den Salzdienst. Eine Ausnahme machten nur die Ärzte, die von auswärts geholt werden mussten. Der Mangel an anderweitigen geistigen Berufen im Salzkammergut, der seinen Bewohnern anerzogene Drang nach der sicheren Versorgung im kaiserlichen Dienst und die wachsende Überbevölkerung führten zu einer Häufung der Angebote auf Beamtenstellen, die den Bedarf beträchtlich überschritten. Es folgte ein Wettstreit der Bewerber, die durch möglichst hohe, dem Salzamt angebotene Darlehen den Vorrang bei Personalentscheidungen zu erringen suchten. Die stets geldbedürftige Hofkammer nahm die Darlehen gerne an und gewährte in den meisten Fällen zwar nicht die angestrebte Stelle selbst, sondern bloß die unverbindliche Anwartschaft auf eine solche, ohne sich über den Zeitpunkt der Ernennung, den Dienstort und die Besoldung zu äußern. Diese Anwärter mussten oft Jahre lang auf ihre Anstellung warten und dienten anfänglich meist unentgeltlich, bevor sie auf eine wirkliche Beamtenstelle eingereiht wurden. Der Charakter des Darlehens als Kaution bestand bereits zu Anfang des 17. Jahrhunderts, zum klaren Ausdruck kommt er aber erst in einer Resolution Kaiser Leopold I. vom 13. Oktober 1657. Die Kaution war von den anzustellenden Beamten zu erlegen und diente zur Deckung des Salzamtes für eventuelle Verluste aus dem Verschulden des Darlehengebers. Sie blieb im Amt ruhen, wenn der Sohn dem Vater im Dienst folgte oder wurde den Erben nach abgeschlossener Rechnungsprüfung und nach Abzug der allfälligen Restschuld rückerstattet. Die Kaution blieb dauernd an die Dienststelle gebunden und war vom Nachfolger einzulösen. Darlehen über das Kautionsausmaß hinaus wurden auch in der Hoffnung gegeben, die angestrebte Stelle dauern behalten zu dürfen. Die kautionspflichtigen Beamten hatten überdies für sich und die Frau Verzichtsrevers zu unterfertigen, mit denen sie das Salzamt ermächtigten, sich mit der Kaution für alle materiellen Nachteile zu entschädigen, die diesem während der Dienstzeit des Beamten aus seinem Verschulden erwachsen waren. Der Rechtsanspruch des Ärars bezog sich sowohl auf Hab und Gut des Mannes wie auf das Eigentum der Frau und deren künftig, zu erwerbenden Güter. Die dritte und letzte Bedingung, welche der neuernannte Beamte außer der Kautionsleistung und der Ausstellung der Verzichtsrevers noch vor dem Antritt des Dienstes zu erfüllen hatte, war die Ablegung des Gelübdes in die Hände des Salzamtmannes. Erst unter Baron Sternbach wurde mit dem System der Darlehen endgültig gebrochen und die Besetzung der offenen Stellen auf Grund der vom Salzamt zu erstattenden Dreiervorschläge ausnahmslos vorgenommen. 1776 wurden die Salzfertigerrechte den Berechtigten im Salzkammergut gegen eine jährliche Entschädigung von je 300 Gulden C. M. abgenommen. Ideen der Aufklärung Ende des 18. Jahrhunderts: Das Salzkammergut als Staat im Staate geriet mit Ende des 18. Jahrhunderts zunehmend ins Kreuzfeuer der Kritik. Vor allem den Aufklärern, die für einen „logischen Staatsaufbau“ und gegen jegliche Sonderregelung kämpften, waren die Reformationslibelle ein Dorn im Auge, weil sie „jede Transparenz, Nachvollziehbarkeit und Gleichheit mit anderen Einheiten vermissen“ ließen. Besonders die Linzer Behörden stießen sich an der „exempten“ (= rechtsfreien) Landschaft im Süden, die Wien quasi als Exklave unterstellt war. 1757 gelang es der Linzer Landeshauptmannschaft, die dritte Instanz der Rechtsprechung von der Hofkammer an sich zu ziehen, mit dem Argument, dass das Beschreiten dieses Rechtsweges für viele Salzkammergutbewohner wegen des weiten Weges nach Wien faktisch unmöglich sei. Trotzdem bestätigte Maria Theresia das Grundgesetz – die Reformationslibelle – nochmals ausdrücklich. Die Integration nach Oberösterreich und das Ende des Staates im Staate waren indes nicht mehr aufzuhalten. Schon in den 1770er – Jahren wanderten das Polizei- und Steuerwesen nach Linz. Der letzte landesfürstliche Eigentümer des Salzkammergutes war Kaiser Josef II., der 1780 die Alleinherrschaft über die österreichischen Erbländer übernahm. Aufhebung der Reformationslibelle unter Josef II.: Josef II. erbte durch den Tod seines Vaters im Jahre 1765 ein Riesenvermögen von ungefähr 18 Mio. Gulden. 12 Mio. davon brachte er in den fast bankrotten Staatshaushalt ein, für die restliche Summe wurde ein Familienversorgungsfonds eingerichtet, der von nun an das „Erzhaus“ finanziell vom Staat unabhängig machte. Am 10. Juli 1782 wurde das Salzkammergut von Josef II. dem Staat überantwortet. Kaiser Josef II. hatte damit die alte Kammergutverfassung aufgehoben und unterstellte 1783 diese Region politisch der Landeshauptmannschaft ob der Enns. Als Abschluss dieses Rechtsaktes erfolgte 1786 die Aufhebung der Reformationslibelle. Gründung der ärarischen Salzproduktion: Bis zu diesem Zeitpunkt war zwischen dem Besitz des Monarchen und dem Staatsbesitz nicht unterschieden worden, beides bildete eine Einheit. Nun differenzierte man, und damit erlosch der alte, ursprüngliche Rechtsbegriff vom „Privatbesitz“ des Monarchen. Die Region wandelte sich vom „Kammergut“ zum „Ärar“ (von lateinisch „aerarium“ = Bezeichnung für Staatskassa und Staatsvermögen). Mit der Eingliederung des Kammergutes in das übrige Oberösterreich endete auch das uralte Recht der Salzarbeiter auf Befreiung vom Militärdienst. Unter Leopold II. wurde 1791 die Gerichtsbarkeit an den Magistrat Gmunden übertragen und endgültig dem Salzoberamt entzogen. Damit war der letzte Rest der alten Verfassung des Kammergutes endgültig beseitigt worden. Organisation des Gmundner - Salzamtes im 19. Jahrhundert: Zu Beginn des 19. Jahrhunderts waren im Gmundner Salzoberamt 70 Beamte beschäftigt, an deren Spitze der Salzoberamtmann stand. Ihm beigestellt waren 5 bis 7 Salzoberamtsräte als Abteilungsleiter für das Berg- und Hüttenwesen, die Wald- und Landwirtschaft, den Salzverschleiß und Transport, und noch verschiedene andere Angelegenheiten wie Provisionen, Vogtei und Stiftungen. Der Salzoberamtmann und seine Räte bildeten zusammen das Oberamtsgremium, dem auch der erste Buchhalter angehörte. Diesem Gremium unterstanden in weiterer Folge die Salzerzeugungs- (Verwes-) ämter, zuerst nur von Ebensee, Ischl und Hallstatt. Vom Jahre 1826 an kam auch Aussee dazu, dass bis dahin ein eigenes Oberamt gewesen war. Am 1. Juli 1831 ging die Oberleitung der Saline Hallein an das Salzoberamt in Gmunden über. Am 1. November 1849 wurde die Salzburger Berg-, Salinen- und Forstdirektion gegründet und das Gmundner Oberamt musste die Leitung der Saline Hallein wieder abgeben. Der geringe Rest an politischen, gerichtlichen und wirtschaftlichen Einfluss im Kammergut, der dem Salzamt im 19. Jahrhundert noch geblieben war, ging im Revolutionsjahr 1848 verloren, das mit den herrschaftlichen Rechten aufräumte und den Untertanenverband löste. An die Stelle der veralteten Pflegämter traten die Bezirkshauptmannschaft, die Bezirksgerichte und die Steuerämter, der Wirkungskreis des Salzoberamtes blieb auf das Salz- und Forstwesen beschränkt. Das Salzoberamt blieb bis zum Jahre 1850, also über ein Jahrhundert bestehen. 1850 kam es zu seiner Auflassung und an dessen Stelle zur Errichtung der kk Salinen- und Forstdirektion für Oberösterreich mit dem Sitz in Gmunden. Die kk Salinen- und Forstdirektion hatte gegenüber dem alten Salzoberamt durch die Lostrennung der politischen und gerichtlichen Befugnisse in ihrer Machtstellung bedeutend verloren. Die Salzkammergutforste wurden im Jahre 1850 vom Salinenwesen wirtschaftlich getrennt. 1868 erfolgte die Gründung der Staatsforste als selbstständiger Wirtschaftskörper. Auflösung des Gmundner - Salzamtes 1868: In weiterer Folge lies die Regierung aus finanziellen Gründen die Salinenämter direkt dem Finanzministerium zu unterstellen. Damit war die Salinen- und Forstdirektion Gmunden überflüssig geworden, ihre Auflösung erfolgte mit kaiserlicher Entschließung vom 15. Oktober 1868. In Gmunden verblieb lediglich das Salzverschleißamt. Am 1. November 1877 wurde der gesamte Salzverschleiß des Kammergutes nach Ebensee verlegt. Damit waren die letzten Reste des einst so mächtigen Salzoberamtes aus Gmunden entfernt. Bei der Unterstellung der Salinenverwaltungen unmittelbar unter das Finanzministerium wurde der Saline in Ebensee als der größten und bedeutendsten der Vorrang eingeräumt. Deren Vorstand war zugleich auch der Vorstand der übrigen Salinenverwaltungen des Salzkammergutes und stand als solcher im Rang eines Oberbergrates. Gründung der österreichischen Salinen 1925: Nach Zertrümmerung der alten Monarchie kam es zu einer Umstellung wichtiger Zweige der staatlichen Hoheitsverwaltung in kaufmännisch geleitete Unternehmungen. Die österreichischen Salinen wurden selbstständig und Anfang 1925 unter die Leitung einer Generaldirektion gestellt. 1926 errichtete das Finanzministerium die Generaldirektion der österreichischen Salinen in Wien. Im Herbst 1975 verlegte man im Zuge einer Reorganisation die Generaldirektion der österreichischen Salinen wiederum von Wien nach Bad Ischl in die Nähe der Produktionsstandorte. Gründung der österreichischen Salinen AG 1979: Am 1. Jänner 1979 wurde die historische Salinenverwaltung aufgelöst und die österreichische Salinen AG gegründet. Die österreichische Salinen AG, in welche sämtliche Betriebe und Liegenschaften des Bundesbetriebes der österreichischen Salinen übertragen wurde, befand sich zu 100 % im Besitz der Republik Österreich. Die gesetzliche Basis für diese Rechtsformänderung war das Salzmonopolgesetz 1978, das von allen drei im Parlament vertretenen Parteien einstimmig beschlossen wurde. Durch dieses Gesetz wurden auch die bis dahin noch in Geltung gestandenen Artikel der Zoll- und Staatsmonopolordnung vom 11. Juli 1835 aufgehoben. Privatisierung der österreichischen Salinen AG 1997: Am 7. Mai 1997 übernahm eine private, österreichische Käufergruppe als neuer Eigentümer in Form einer Erwerbsgesellschaft, der Salinen Beteiligungs - GmbH, die Österreichische Salinen AG mit allen ihren Gesellschaften. 2001 kam es zur Verschmelzung der Salinen Beteiligungs - GmbH mit der österreichischen Salinen AG zur Salinen Austria AG. Gleichzeitig wurde der Produktionsstandort „Salzbergbau Salzkammergut“ der Salinen Austria AG, in welchem die Salzbergbaue Altaussee, Hallstatt und Ischl zusammengeschlossen sind, gegründet. Salinen – Eigentümer und Organisation: 1449 Ablöse der Hallinger – Rechte durch Kaiser Friedrich III., Grundstein für einheitliche Verwaltung und Monopolisierung. 1835 Gesetzliche Verankerung des Salzmonopols 1850 Gmunden Salinen- und Forstdirektion 1868 kk – Finanzministerium Wien 1905 - 1926 Finanzlandesdirektion Linz 1926 - 1938 Alpenländische Salinen Wien 1938 - 1945 Ostmärkische Salinen Wien 1945 - 1975 Eigentümer Republik Österreich, Generaldirektion in Wien 1975 Ausgliederung aus dem Bundesbudget 1979 Aktiengesellschaft 1995 Wegfall des Monopols 1996 - 1997 ÖIAG Ausschreibung für Privatisierung 1997 Privatisierung an österreichische Gesellschafter Verwendete Quellen: Carl Schraml „Die Entwicklung des oberösterreichischen Salinenwesens im 16. Und 17. Jahrhundert“, Jb. des OÖ Musealvereines, 83. Bd., Linz 1930 Carl Schraml „Das oberösterreichische Salinenwesen von 1750 bis in die Zeit nach den Franzosenkriegen“, Wien 1934 Carl Schraml „Das oberösterreichische Salinenwesen von 1818 bis zum Ende des Salzamtes 1850“, Wien 1936 Carl Schraml „Vom Salzamt zur Generaldirektion“, Werkszeitung Österreichische Salinen, 4. JG, 12. H, Wien 1931 Ischler Heimatverein „Bad Ischl Heimatbuch 2004“, Bad Ischl 2004 Ferdinand Krakowizer „Geschichte des Gmundner Salzhandels“, Werkszeitung Österreichische Salinen, 3. JG, 8. + 9. H, Wien 1930 Michael Kurz „Von der Grundherrschaft zur Tourismusdestination 350 Jahre Salzkammergut“, OÖ Heimatblätter, 60. JG, 3. + 4. H, Linz 2006 Ferdinand Tremel „Die Ausseer Hallordnungen des 16. Jahrhunderts“, Veröffentlichungen Österr. Museum für Volkskunde, Bd. XVI, Wien 1975 Kurt Thomanek „Salzkörner“, Leoben 2007

  • Knappenkost und Knappentrunk | glueckauf

    KnappenkostとKnappendrink 残った食料、衣類、備品に加えて、3000年前までの人間の糞便が高山の塩山に保存されています。近年、特にハルシュタットの塩鉱山で行われた豊富な発見から、青銅器時代の鉱山労働者の食生活の良い写真を得ることができます。 調理スプーンと大きな鍋の破片の発見は、調理がピットの現場で直接行われたことを示しています。大きな焦げた木片は、強力なピットファイヤーが維持されたことを示しています。これは、光と調理の火の源として機能するだけでなく、ピットの天候を暖め、天候のドラフトを増加させました。 3000年前の素晴らしい料理の火で何が準備されていたのでしょうか。 大麦、キビ、ソラマメの残骸、およびかじった動物の骨の破片は、ハルシュタット鉱山労働者の排泄物に見られます。ハルシュタットの鉱山労働者のメインコースは、おそらく今日のリッチャートと同様に、豆類と劣った肉の皮から作られたボリュームのあるシチューでした。彼らは小さな木製の容器から水や牛乳を飲みました。 排泄物の検査はまた、事実上すべての鉱夫が腸内寄生虫に感染していることを明らかにしました。これは腹痛、疝痛および下痢につながりました。 ハルシュタットの鉱山労働者は、ハードワークのために大規模な関節関節症に苦しんでいました。さらに、炭水化物が豊富な食事は深刻な虫歯を引き起こしました。 そのため、先史時代のハルシュタット鉱山労働者は、仕事から身をかがめて静かな場所を常に探していた、ほとんど歯のない鉱山労働者でした。本当にいい鉱夫の人生ではありません!!! 鉱夫の食事に関する最も近い情報は、中世初期の著作から来ています。 これらの情報源は、必要な食料、その価格、および食料を入手する際の大きな困難に関する重要な情報を提供します 中世でも、毎日の食事は一方的で、ビタミンが不足していました。初期のシフトが始まる前に、鉱山労働者はライ麦粉、水、塩からマッシュを準備しました。昼食は例外なくパンとベーコンを食べました。夕方には、シュマーンやニョッキなどの卵生地料理を食べました。テーブルドリンクは主に水とミルクでした。 大量のアルコールは、一般的に、教会の祭りや祝日などの休業日にのみ飲むことができます。それだけでは十分ではありませんでした。 17世紀のザルツカンマーグートでは、鉱夫たちは1年に58回の休業日を過ごしました。 栄養不良と勤勉さのために一部の鉱夫が麻薬に頼ったという事実は、今日では理解できるようです。アルコールは、病気の強壮剤および治療法と見なされていました。 市場での無料購入を鉱山労働者に提供することは非常に困難であったため、多くの鉱山で現物支払いが導入されました。 取引は、配達される食料の正確な量とその価格を設定します。規定は基本的に穀物、ラード、ベーコンで構成されていました。 1553年頃、カリンシアの金鉱山の既婚労働者に、小麦粉3 kg、ラードと肉1 kg、パン10斤が14日間与えられました。 取引が鉱夫に平均20%高い価格を請求したと仮定すると、これは無視されるべきではない取引のための追加の利益をもたらしました。 貿易はまた、彼らがとにかく飲み物、ゲーム、そして女性にしかそれを使わないと思ったので、鉱夫にできるだけ少ない現金を与えるように努めました。 この「無料のお金」で、鉱山労働者は、塩、油、野菜、ワイン、シュナップスなど、他のすべての食品や高級品を法外な価格で取引から購入しなければなりませんでした。 古いファイルは、ザルツカンマーグートの特別な機能について報告しています-塩鍋: 1815年には、2,900人のアラブの塩採掘者とその家族に供給するために70,000人の鉱夫または3,100トンの穀物が必要でした。穀物のほとんどは、ハンガリーからドナウ川とトラウンを経由して船で入手する必要があり、高価でした。供給コストを下げるために、マリア・テレジアの下で、若い鉱夫のために塩事務所によって結婚許可証が導入されました 。 穀物価格が高かったとき、Oberamtは単に結婚許可証の発行をやめました。その結果、世話をする家族の数は急速に減少しました。 しかし、若い結婚可能な男性は、禁止のためにザルツカンマーグートを大騒ぎで去りました。家族を始めたいという衝動は、州の塩鉱山での低賃金の苦痛の喜びよりも大きかった。歯を磨くと、オベラムトは結婚の禁止を何度も撤回し、若者がザルツカンマーグートに戻ることができるように結婚のお金を払わなければなりませんでした。 ザルツカンマーグートでの食糧供給に向けた重要な一歩は、1765年からのジャガイモ栽培の導入でした。人口はすぐにジャガイモを食べることに慣れ、ジャガイモの栽培は急速に増加しました。 1807年にザルツカンマーグートで50トン以上のジャガイモが収穫されました。 18世紀半ば頃、自由市場の状況が大幅に改善したため、オーストリアの鉱業における賃金の支払いが増加しました。商人は、最も遠いタウアーンの谷にさえ手頃な価格で食料を供給することができました。 鉱夫が利用できる現金が増えるにつれ、アルコール消費は大きな問題になりました。 Vordernbergerからの手紙は1792年から取引されています: 「最も緊急の必要性を超える現金収入は、労働者を飲み、遊び、怠惰に誘惑するだけです。」 19世紀になっても、鉱夫の運賃は不十分で一方的なままでした。長い冬の間、ミルクが不足し、肉はほとんどなく、ほとんどが小麦粉で、野菜はめったにありませんでしたが、アルコールの摂取量が早く過剰だったため、平均寿命は50年をはるかに下回りました。 19世紀の終わりから、工業的に生産されたアルコールはより安く、より普及しました。ますます追い出されている無数の醸造所からのビール、シュナップス、そして地方の生産からのワイン。 食糧事情は19世紀の終わりにのみ改善しました。労働者の消費協同組合の設立により、食糧供給は大幅に拡大され、より手頃な価格になりました。 それにもかかわらず、ラード、ベーコン、小麦粉は、ジャガイモやトウモロコシと並んで、20世紀に入っても最も重要な食料品であり続けました。肉料理、通常は牛肉は、日曜日と祝日のみ提供されました。 ザルツカンマーグートにおける栄養の社会史 IschlerSalzbergと鉱業全般に関するすべての詳細

  • 16 Alte Steinbergstollen | glueckauf

    16オールドスタインバーグ–トンネル スタッド名: 密な石灰岩のルートのための「AlterSteinberg-Stollen」 打たれた: 1567 長さ: 902 m(Kalkで658 m、Haselgebirgeで244 m) 高度: 852メートル 1567年、フェルディナント1世皇帝の下で。 「AlteSteinberg-Stollen」と「Oberberg-Stollen」は、後に「Lipplesgraben-Stollen」と改名されました。 新しいトンネルは、ミッターベルクトンネルで発見された塩山を利用し、ミッターベルクトンネルの2つの揚水工事を放流堰に変換することを可能にしました。 ミッターベルクトンネルから作成されたテストディグに勇気づけられて、イシュル鉱山労働者はわずかに低い位置にあるオールドスタインバーグトンネルを開始しました。メインシャフトは石灰で552Stabel(658.0m)で駆動する必要があり、その後ろで少なくとも205 Stabel(244.4m)の長さの豊かなHaselgebirgeに遭遇しました。 1575年、3つのオーゼー、ハルシュタット、イシュルの製塩所の専門家がイシュラーザルツベルクを視察し、助言しました。 古いスタインバーグトンネルでは、メインシャフトの左側に山を開くための水平なピットがあり、その隣には南に設計されたポンプ場がありました。 Ebenschurfの下に拡張された試験炉は塩分が豊富な山にあったため、検査官は、TaubenのEbenschurfのフィールドサイトをさらに拡張する必要があることを提案しました。 淡水が持ち込まれたため、状態の良いダムが建設されました。 オールドスタインバーグトンネルの現場は耳の聞こえない山にあったため、検査官は陥没穴を掘って塩山を探索し、オーブンで山を調べることにしました。 後頭部の石灰岩を堆積物と見なした鉱夫の経験不足のため、突破後に塩が再び来なければならないため、オールドスタインバーグトンネルで強力な自己散水が開始され、その対処が原因でした大きな困難。 1580年、スタインバーグにまだ水を含んだギザギザの石灰岩があったとき、それ以上のトンネル掘削をやめようとしていました。 1654年に作成されたピットプランは、古いスタインバーグトンネル-メインシャフトが最初に裸の岩と材木で156スタベル(186.0m)であり、次に40スタベル(47.7m)の長さのセクションが密な石灰岩で建設されたことを示しています。から来た彼の名前もまた、タウベン山脈の113スターベル(134.7m)から来ました。全長309スタベル(368.3m)の後、古いスタインバーグトンネル-メインシャフトはついに塩の山に到達しました。 Hasel Mountainsでは、まっすぐなメインシャフトが継続され、2つのベンドが作成されました。つまり、右側のボウルベンドと、左側のChristophEyselベンドです。 ボウルターンの長さは135スティック(160.9m)で、フィールドの場所は石で書かれていました。このヘアピンカーブには、2つの放棄されたポンプ場、つまりフックステーションとシューティングステーションがありました。 ChristophEysel-Kehrの長さは80Stabel(95.4m)で、2つの新しいポンプ工事がありました。MathiasEysel-とHörlin-の建物で、最初の散水時に4つのStuben Sulzen(452.8m³)がありました。このターンのフィールドの場所は石膏石でした。 塩山のZwerchschurf(対角Schurf)205 Stabel(244.4m)に立ち上がった主軸の真っ直ぐな続きには、6つの穴がありました。これらの上水道の名前は、Ederinger、Ebinger、Hinterdorfer、Neuhauser、Schroffensteiner、および古いWeidinger-Bauでした。巣穴は部分的に交差しており、すでにほとんど使用されています。 古いWeidingerの建物には追加のダムが設けられていたため、メインシャフトの後ろにある塩の山からの落下も水で満たすことができました。 上記の2つのベンドに加えて、メインシャフトの左側に延長されたEderベンドとWeidingerベンドもありました。 67バール(79.9 m)の長さのエダーベンドには、フィールドの場所が石で書かれていました。エダービルは現在も使用されており、深さ14バール(16.7 m)で、3部屋(339.6m³)の塩水を保持していました。 Weidinger-Kehrは塩辛い山の中に34Stabel(40.5m)を立て、同じように新しいWeidinger-の建物があり、建設深度は8 Stabel(9.5m)、Suoleの部屋は12室(1358.4m³)でした。 メインシャフトの後部では、塩山を探索するために、右側に40極(47.7m)、左側に28極(33.4m)の横方向の掘り(横方向の掘り)が延長されました。前者の野原は石と不毛の山にあり、後者には接近した淡水の流入を防ぐために木製の堰がありました。 このZwerchschurfの後ろで、メインシャフトは塩の山からの落下の上にさらに30本の棒(35.8 m)によって伸ばされました。彼らの野原は石と不毛の山々にありました。 また、このメインシャフトには、ミッターベルクトンネルから下のメイントレンチと、ミッターベルクトンネルに建設されたシェレンバーガー堰の22スタベル(26.2 m)と8スタベル(9.5 m)の長さの排出炉がありました。 ハルシュタットからのSulzstrehnの長い修理作業のため、イシュルとエーベンゼーの両方の塩田の塩水は、主にオールドスタインバーグトンネルで生産されなければなりませんでした。 そのため、1654年には、10スタベル(11.9m)を除いて、32スタベル(38.1m)の強大な山の厚さ全体がすすけていました。 1656年に、古いスタインバーグトンネルは豊富な塩のコアに立っていて、時々頻繁に使用されなければならなかった12の水ダムを含んでいました。巣穴はすでに崩壊していた。委員会はスタインバーグをアンダーカットすることを推奨しましたが、外部の専門家の関与を得てさらなる協議を行う必要があります。 最後に、1692年に、新しい地下道トンネル、つまりRabenbrunnトンネルが打たれました。 長さ1,000mを超えるレーベンブルントンネルでは、進行方向が間違っていて傾斜が強すぎるため、1つの建物を建設するために塩山にしか近づくことができませんでした。 1751年、塩の山々を探索するための古いスタインバーグトンネルでは、アイゼルベンドや他の場所のテストピットも成功しませんでした。 したがって、オールドスタインバーグ(およびレーベンブルン)トンネルはその後すぐに放棄されました。 使用されたソース: カール・シュラムル「アッパーオーストリアの塩は16世紀初頭から18世紀半ばまで機能する」、ウィーン1932年 カール・シュラムル「1750年からフランス戦争後の時代までの上部オーストリアの製塩所」、ウィーン1934年 ヨハン・ステイナー「オーバーエスターライヒのスイスを旅する仲間」、リンツ1820、グムンデン1981を復刻 マイケル・ケファー「kk Salzberg zu Ischlの主な地図の説明」、1820年、Thomas Nussbaumerによる転写、2016年9月13日現在 アントン・ディクルバーガー「オーバーエスターライヒの塩鍋の体系的な歴史」、第1巻、イシュル1807、トーマス・ヌスバウマーによる転写、2018年6月現在 B.ピルウェイン「エンスとザルツブルク公国の上の大公国の歴史、地理、統計」、第2部、トラウンビアーテル、リンツ1828

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